NHK「大追跡グローバルヒストリー」の撮影と水沼製糸所の座繰り
2026-06-28
NHK『大追跡グローバルヒストリー / ニューヨーク謎のビジネスマンを追う』の撮影に協力いたしました。
番組では、新井領一郎が取り上げられます。
撮影は、生糸や上州座繰り、揚げ返しです。番組の主軸は座繰の話ではないので、放送でどれだけ使われるか、または使われないかもしれませんが、ぜひご覧ください。せっかくの機会なので、新井領一郎や明治時代の上州座繰りについて少し書きたいと思います。
その話の前に、明治の製糸について調べると経済史学の大野彰先生の論文に当たることが多くあります。
論文を拝読するたびに、大野先生のマニアックな視点と製糸技術への明るさに感嘆してしまいます。どのような方なのだろうと思っていたところ、今回番組に先生が登場されると伺い楽しみでなりません。
『 生糸と絹織物のグローバル・ヒストリー 』
著:大野彰 2023年、ミネルヴァ書房
製糸産業における著者渾身の一冊。幕末・明治以降の外貨獲得のための重要な産業が、どのように発展していったのかをつぶさに見ていく。
さて、新井領一郎といえば、明治初期に日本製の生糸をアメリカ市場に売り込んだ人物です。
横浜開港以降、それまでは外国人が日本に生糸を買いに来るものでしたが、彼は外国へ赴きました。領一郎は、上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の豪農星野家に生まれました。12歳のときに生糸問屋の新井家へ養子にでました。領一郎の兄・星野長太郎は、製糸業と生糸貿易の将来性に着目し水沼製糸所を設立しています。領一郎はその生糸をアメリカで販売したのです。
新井領一郎の実家・水沼製糸所は、洋式器械製糸を民間では最もはやく始めた家でした。そして器械製糸技術を学びたい人々を受け入れる伝習所の役割も果たしました。
このことから座繰り撮影の問合せをいただいたときは、ディレクターのYさんに「水沼製糸を取り上げるなら座繰りは違うのではありませんか?」とお訊ねしたくらいです。そこで、水沼製糸所は座繰りの生糸も輸出していたと教えていただきました。
これを機会に、以前から気になっていた書籍を手にしました。そこには水沼製糸所の座繰り写真が掲載されていました。
『 SAMURAI and SILK - 絹と武士 - 』
著:ハル・松方・ライシャワー
訳:広中和歌子 1987年、文藝春秋
侯爵松方正義と生糸貿易のパイオニア新井領一郎――二人の祖父の生涯を跡づけながら、日米交流のルーツを考察する興味深い家系史。
座繰りの写真には 1872年(明治5)とありました。
星野長太郎は、1872年 9月から1873年 1月にかけて藩営前橋製糸所で器械製糸技術を学び、同年11月に製糸所の建設に着手、1874年(明治7)2月に水車動力の器械 32釜を設置し水沼製糸所を開業したとされています。※
ということは、この写真は器械を導入する以前の星野家の家業を撮影したものなのでしょう。
※「楫取素彦が支援した星野長太郎・新井領一郎兄弟の偉業」より
ディレクターのYさんには、当時の座繰りを忠実に再現する趣旨ではないといただいていたので、お話がきた時点では手持ちの復元道具を使おうと考えていました。
それは、1878年(明治11)から現在の群馬県安中市で座繰り生糸を製造した碓氷社の復元道具です。しかし、水沼製糸所の写真を見た後ではそれは使いたくありません。
水沼製糸所の座繰りで注目したいポイントは 2点です。赤丸で囲った部分になります。
① 「毛つけ」を使う。
この写真からはわかりづらいのですが、現在では鼓車という生糸の抱合装置がよく使われる位置に、人の髪毛や馬毛を付けました。これを「毛つけ、毛より、毛坊主」などといいました。
② 繰糸鍋の縁に繭糸を集める「弓」が取付けてある。
書籍の写真ではこの部品はぼやけていてわかりづらいのですが、湯面に浮かぶ繭糸を一ヶ所に集める弓です。
碓氷社では座繰器の手前中央正面に弓がきますが、水沼製糸の場合は作業者の奥側、繰糸鍋の縁に装着しています。
写真の座繰りは、左図のような形態です。
これは、1900年(明治33)に出版された教本の抜粋です。図の ”へ” は「硝子弓」で、明治8、9年の頃に前橋にあった「精絲原社(星野長太郎も役職を務めた製糸組織)の発明に係わるもの・・・」で同社が座繰生糸をニューヨークに送り評判を博した方法だとあります。この硝子弓の取付け方は、弓を筒竹に固定し繰糸鍋の縁に挿し込みます。
写真と図では異なる道具のように見えますが、実際にこれを繰糸鍋に挿し込むと弓は左図のように水平にはならず、写真のように傾斜がつくはずです。というのも、当時の繰糸鍋は台形型なので筒竹を指すと鍋の角度に沿って筒竹が外側に向かって傾き、弓もこれに伴うからです。
ここまで書いておいて言い訳になりますが、ご依頼から撮影まではあまり時間がなく、水沼製糸の弓は準備できませんでした。
それでもと思い、近いものとしてこちらの硝子弓を作製しました。参考にしたのは、1889年(明治22)の教本です。
ちなみに繰糸鍋は当時は土鍋で、群馬県の前橋は黒色の素焼きでした。黒い鍋は白い繭を浮かべると粒数を目視しやすいので重宝したでしょう。土鍋は割れやすかったようですが安価だったので多く使われたようです。
撮影では、土鍋も用意できなかったので台形の白い琺瑯引き鉄鍋を用いました。ちなみに碓氷社では鍋の内側が白いものが良いとされました。湯の色を目視するためです。湯の汚れは生糸の白度を濁らせ、生糸の品質を下げる要因となります。
現在、群馬を中心に上州座繰器を用いた糸づくりでは、毛つけを使う人はほぼいません。
理由は、明治以降の繰糸機の目まぐるしい発展により、上州座繰器の役割が大きく変わったことがあるでしょう。上州座繰器の発生は江戸末期とされますが、明治8年の諏訪式繰糸機の誕生、明治後期には多条繰糸機も登場し輸出生糸を製造する役割を終えます。そして、器械では扱いづらい中繭や屑繭、玉繭といった選除繭から糸をつくる道具となり現在に至ります。
話は戻りますが、毛つけを用いた生糸は、ケンネル(鼓車)抱合の生糸よりもしなやかで艶やかな光沢があります。この方法でつくられた日本製生糸がかつてアメリカで評価されたことはたいへん興味深いです。
しかし、毛を用いる方法は作業者に集中力と細やかな手先の動作を要求します。作る人によって生糸の品質に差が出やすいです。これは西洋に立ち向かえる高品質な生糸の大量生産が急務だった時代では切捨てざるを得ない技法だったでしょう。
明治初期にヨーロッパから導入された技術や道具は段々と日本在来の繰糸方法にも影響をもたらし、万人が取り入れやすく生産効率の上がる「鼓車(ケンネ)」に「毛つけ」は座を奪われたわけです。そしてケンネルは玉糸製造に取り入れられ、江戸時代から連綿と受け継がれてきた上州座繰器の相棒としてなんの違和感もなく存在している。製糸の歴史を追って行くと面白いです。
週明けの月曜日にNHK総合で放送される
大追跡グローバルヒストリー
『ニューヨーク 謎のビジネスマンを追う』
初回放送日 6月29日 ㈪ PM 7:57 〜 PM 8:42
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-K6KW4V4G4Z/ep/ZP45ZNJP7G
ぜひご覧ください。