養蚕農家が1,000戸になった日
2026-04-03
先々月のことですが、2月23日付の日本農業新聞の一面ニュース『養蚕過去最少113戸』はYahoo!ニュースに掲載されたこともあってか結構話題にあがっていたように感じます。わたしもこの新聞を受けて蚕糸帖(2026-02-24)に書きました。さまざまな方がSNSなどで取り上げていらっしゃいますね。多くの人に知ってもらい、純国産絹製品に関心が向かえばと思います。
養蚕について、わたしが農家戸数で衝撃を受けたのは 1,000 戸 を切ったときでした。それは2009年のことです。あのときに、産業としてはほんとうに難しくなったのだなと思いました。
農林水産省が養蚕収繭量統計調査を廃止したのが2001年で、国としてはこのときだったのではと思います。その後は一般財団法人大日本蚕糸会が新たに統計を公表するようになります。大日本蚕糸会がシルクレポートに掲載するデータは1994年からのもので、この時点で全国の戸数は19,040戸。そして2009年に915戸となりました。養蚕農家戸数は毎年約2割ずつ減少しこの計算だと2026年には100戸を切るといわれていましたが、その通りになりました。
わたしが蚕糸業に関係するようになったのは2002年に群馬県へ移住してきてからになります。養蚕と深く関係してくるのは2006年ころからです。独立して1戸の農家から1年間に生産する繭を全て購入させてもらい、座繰糸を受注生産していました。しかし、それも2年で農家が引退することになります。養蚕は夫婦二人三脚で行う家が大半で夫婦のどちらかが体調を壊せばそこで引退することが多いのですが、わたしがお世話になった農家も奥様が腰を悪くしているのでそろそろ辞めたいという理由でした。当時は新たに養蚕を担う人の話は聞いたことが無く、高齢化と担い手不足がいわれていました。わたしも当時の感覚では、このまま養蚕農家は引退の一途で自然と減って行き終わるのだろうと想像していました。わたしは赤城で節糸をつくるおばあちゃんたちのように80、90歳になるまで座繰りができたらと思っていたので、養蚕業が絶えても自分で繭を確保できるように蚕の飼育を勉強しようと思い立ちました。契約農家が引退する話を機に他の農家で研修を受けはじめました。そのおかげで、契約農家の最後の上蔟日には最初で最後一度きりでしたが手伝いをさせてもらいました。とても貴重な経験でした。
また、研修を受け入れてくださった農家は、実は前年で養蚕を引退したご夫婦でした。そのため、その後わたしが研修を受けた2年間(蚕期では3回)は一緒に養蚕をしてもらい、生産した繭はわたしが受け取るというものでした。
そのため、わたしは2007年から自家生産の繭で養蚕から座繰りまでを行うようになりました。
わたしはその他に、高崎、前橋、渋川の一部のエリアから製糸工場に出荷されない中繭や屑繭(ビショマユ)を集めていました。これを節糸づくりの原料にしていたのです。一時期繭を回収する業者からも購入していたこともあります。そのころの話もいろいろあるのですがここでは割愛します。中繭を集めることは、自分が養蚕を始めたときに止めました。こうした繭は養蚕をするときには病気の原因になる可能性があるからです。
以上のことから、わたしは養蚕を始めたときから繭は自家用で、製糸工場には出荷していません。ですから2011年度で国の繭代補填制度が終了したことも関係がありませんでした。ですが、ここからはこの制度やその当時わたしが見聞きしたことを書いて、養蚕農家のことやその周辺を少し感じていただけたらと思います。
この制度について調べると、財源は輸入金調整金で外国産の生糸を輸入する際に業者から徴収していた輸入糸調整金でしたが、国内の絹需要が減り、生糸の輸入量そのものが激減したため補填に回す資金が枯渇したようです。そこで蚕糸業が終わった可能性もあったのかもしれません。ですが新たな支援が現れます。それは、大日本蚕糸会が造成した基金を原資とした蚕糸絹業提携事業です。事業は2008年度に準備が進み、2011年から移行しました。この変化は単に補助金の窓口が変わった話ではなく、農家を巻き込んだ国産絹製品のブランド化支援でした。それまでは 主に中国との価格差を国が補填するものでしたが、新たな補助金は生産者から加工・販売まで(いわゆる川上から川下まで)が協力して、ブランド価値を高める取り組みをするグループに対してのものでした。この支援形態の変化、そしてちょうど各県に存在した蚕糸の振興会や連合会の維持が農家の減少により難しくなったことが要因と思います。
余談ですが、蚕糸絹業提携事業についてはわたしも当時興味があり、まずグループをつくるにあたりコーディネーターになる必要があったので、その資格を取りました。わたしが資格を取った時期は、この事業が始まってまだ1年経つかどうかの早い段階でした。そのころは個人や小さな工房が核となる小規模な取り組みは想定されていなかったようで話は進まず、その後知り合いの作家に声をかけてグループをつくる話をしはじめていましたが事業を行った際の補助金額とそれをもらうための手配や書類業務を考えると割に合わない気がしてそこで止めてしまいました。
これまで養蚕農家の大半は、農協を通じて、契約する製糸工場へ繭を出荷してきました。かつては各県にたくさんあった製糸工場は無くなり、遠方まで繭を運ばなくてはならなくなりました。農家が出荷する繭は生繭です。繭の中の蛹は生きていて出荷から数日で羽化します。そのため、そのまえに殺蛹乾燥させる必要があります。
一例ですが、当館が住む地域はかつて高知県の藤村製糸と契約をしていました。藤村製糸は高崎に乾繭工場を持っていて、群馬県で契約している農家の繭はそこで乾燥され高知県へ運ばれました。そんな話も今は昔で、遠方への運搬は農家負担です。生繭の運搬は、繭の中の蛹が羽化したり傷つかないように冷蔵トラックをチャーターします。繭価格が上がらないなかで運搬費は農家にとって大きな負担ですが、それでもなんとか続けていたのは、各県の蚕糸振興会などで長年積み立てていた資金がこの運搬費に充てられたからです。その資金も頼れなくなったのが新しい制度に変わる前後ころです。養蚕農家戸数が少なく高齢な地域は、農協が新たな取り組みに移行することが組織にとって負担と考えたのではとわたしは思っています。あの頃、その年の最終出荷時に「養蚕は今年で終わりです」と農協から突然告げられた地域があったのです。農協にとって養蚕は、かつては花形の農産物だったこともあり長年の農家との関係からそのまま業務を継続していたけれど抱える戸数がわずかとなり、それも高齢であれば先細る一方だから制度が変わるこのときが終わる潮時と考えたのでしょう。47都道府県のなかで 2009、2010年ころに農家戸数が1、2戸でもないのに次年度にゼロになったところは以上のようなことで終わったのだろうと思います。
この話を読んだ人のなかには、農協がだめでも農家が自主的にどうにかできなかったのかと思われる方もあるでしょう。わたしが知る限りそれは難しいと思います。なかには農協が終了を宣告した後に自身で続けていた方の話しも一例聞いていますが稀です。農家の多くは蚕種購入や稚蚕飼育(孵化から1週間−10日間の飼育)の手配を農協に依頼し自宅まで配達してもらいます。そのため農協以外からの購入方法を知らないことは珍しくないのです。それ以前では製糸工場が自社で蚕種を生産し稚蚕飼育も担った上で農家に配布していた時代がありました。製糸工場はたくさんの繭を確保したいですから全てを抱え込んでいたわけです。群馬県を一例に上げても、昔は各家で蚕種の購入から繭出荷まで行った時代もありますが、昭和30年代には字ごとに農家が集まり稚蚕飼育を共同で行うのが主流になります。稚蚕期の蚕はとてもデリケートで病気に弱く、飼育室の湿度と温度管理には細心の注意が必要です。そのため稚蚕飼育をするなら専用の環境を作りたいところですが、稚蚕用の設備を有する家は現在では少なく、稚蚕期飼育をしたことがない農家が多いのです。
わたしが養蚕を始めた頃にベテラン農家で話を聞いて驚いたのは、自身が育てる蚕の品種を知らない人が結構いることでした。大方は錦秋鐘和か春嶺鐘月で、この二種類は飼育に関しては差ほど違いがないのでそういうことだったのでしょうが。そうしたベテラン農家が、新制度後にいつのまにか契約先が変わり、或るときそれまでとは違う品種を渡されて困っていたのを見ました。それは錦秋鐘和とは飼育日数が違う品種だったのですが、そのことを農家は知らなかったので齢期が変わるタイミングを見誤り作業が後手にまわって苦労されていたのです。農協担当者からその旨の指示がなかったと聞いて酷いなと思いましたが、新制度に変わった頃は農家以外の関係者も皆四苦八苦したのだと思います。この農家のエピソードについては、偶然わたしが過去に飼育した品種で飼育標準表(飼育日数や温度、与える桑量などが記された工程表)を持っていたので差し上げました。
この10年ほどは、養蚕が一度廃れた地方でも元農家から飼育方法や道具を譲り受けて始める人や少数ではありますが本格的に養蚕業に入ってくる若者や企業も出てきました。今後も高齢者の引退は止められませんが、新たに入ってくる人々が少しでも増えたらと思います。そのためには、繭代の値上げ、そして国産生糸を使う人々とそこから製造される国産製品を手にする人が増えることです。
現在の国産繭は、前述の蚕糸絹業提携事業のもとに養蚕農家、製糸、撚糸、染色、織りなどの各業態が1つのグループとなって純国産絹(国産繭からつくられた絹)製品をつくる取り組みとなっています。
先月、銀座もとじさんがプラチナボーイ20周年記念展を開催されていました。プラチナボーイは、世界で初めて雄の蚕だけを孵化させることに成功した蚕品種です、銀座もとじさんは2007年からこの繭を使った純国産絹製品を世に出しています。わたしも以前この繭を座繰りする仕事をいただきました。プラチナボーイは繭糸の長さが1500m(通常は長くとも1300mくらいまで)あるのですが、繭は一般的な繭より小さいのです。ですから繭層が厚いということなのですが、この繭はシボがしっかりしていてずしりと重く、たいへん瑞々しい印象を持ちました。生糸になってしまうと品種は違っても往々にして生糸だけ見たのでは比べても違いは感じずらいものですが、プラチナボーイの生糸は実際にプラチナのように輝くので驚きました。そしてここ数年で飼育に関わる養蚕農家が若い方々にバトンが渡されたことを知りました。今後の10年、20年を見越されていること、そして若い農家にとっても力強く呉服業界を歩いていらっしゃる企業と手を結べたことは自分たちの未来をも明るく感じられたことと思います。
昨年、岡谷でドキュメンタリー映画「森を織る」を鑑賞したのですが、そこに出演された丹後の創作工房糸あそび・山本徹さんのインタビューはすごく良かったです。山本さんは国産生糸を意識して使っており、もうすぐ自社で使う糸はすべて国産生糸にシフトする、それで企業としてやって行ける商品作りをしているとおっしゃっていたと記憶しています。内容をメモする時間がなかったのですが、具体的な数字も出していたのが印象的でした。呉服以外のテキスタイル業界でも国産生糸を意識して使っていることが素晴らしいです。
2021年の碓氷製糸のインタビューに「国内の生糸の取扱量のうち、国産のものは、7%くらいしかない。」と書いた記事を見つけました。https://workers-in-japan.com/2021/06/26/usuiseishi-japanese/ (Workers in Japan)
いまだと3%くらいに低下しているのではないでしょうか。もうずいぶんと以前から国内製造の絹製品に使われる絹糸のほとんどが中国やブラジルといった外国産です。国産糸でないと困るという人はほとんどいないわけです。机上の空論かもしれませんが、国内製造の絹製品の糸がすべて国産生糸に入れ替えられたら、少なくとも呉服の絹すべてが国産生糸に切り替えられたら、もう少し日本の絹は存続できるし、養蚕の担い手、製糸工場の機械も縮小するのではなく新しい機械を導入する、そういう未来を描けるのではないかと思います。