「養蚕過去最少113戸」を読んで、思い出。
2026-04-01
わたしが座繰りをやりたくて群馬へ移住したのは 2002年の春のことなのですが、その頃も養蚕農家戸数減少と高齢化担い手不足の問題は言われていました。当時のわたしは業界のことは何もわからず客観的に周りを見ることはできていませんでしたが、いま思い返すと全国でも養蚕農家戸数が一番多い群馬県で製糸工場が 1社しかないという意味を深く考えていませんでした。ここでは、その当時の思い出話を少し書きます。
現碓氷製糸株式会社は、元は民間企業の廃業にともない、1959年に町の政治家が動き地域の農家等が出資し組合製糸となりました。碓氷製糸が県内で唯一の製糸工場として最後に残ったのは農業組合だからでしょう。群馬県では1990年代まで3社の工場が営業を続けましたが、そのいずれもが農業組合だったことから民間企業との組織の成立ちの違いが功を奏したのだと思います。それ以外にも碓氷製糸は生糸の製造に独自の努力を重ねていたことが上げられます。
わたしは碓氷製糸に2年勤めました。当時の従業員数は60人でした。従業員の多くは生え抜きの人々で、その多くは50代以上でした。それ以下の年齢で生え抜きは少なく若手は他県出身か外国人でした。他県から来た者のひとりは北陸地方の製糸会社の閉鎖にともない移ってきたと話していました。わたしがお世話になった女子寮もあるとき閉鎖した他県の製糸会社から独身の女性たちが何人かまとまって移ってくるのを機に整備された建物で、その女性たちは寿退社して行ったといいます。繰糸場は女性が多い職場です。そのなかには教婦(きょうふ)という役職があり、繰糸の技術指導や品質検査、労務管理のような仕事をされていたと記憶しています。当時2名の教婦が在籍していてその一人は30代半ばでしたが、もしかしたら製糸業界ではその方が教婦の最後の世代かもしれません。わたしはといえば、入社したばかりのときは素人でしたから繰糸をする先輩のアシスタントや再繰場で太い糸のアミソ掛けをしました。素人に仕事を与えるというのはご迷惑をおかけしていただろうなと思います。キビソを竿に干す仕事もしました。そのときに糸の扱い方を良いとほめてもらいました、これは染織の経験が役立ったときでした。もうひとつ繰糸場で褒められたことがありました。当時高校生の娘さんをお持ちの女性が休憩時間に話すには、「私はこの仕事で子どもを育ててきた。繰糸場で一日働くと仕事着には繭を煮た独特のニオイが付く。それを娘は臭いと言った、お前たちはこの仕事のおかげで食べているんだぞとひっぱたいたことがある。だから、あなたは若いのに偉い」と、鼓舞いただいてうれしかった思い出です。当時20代のわたしが入社した理由は座繰りをするためにまずは製糸現場に身を置きたいということでした。本当は赤城で座繰りをするおばあちゃんたちの現場に入りたかったのですがそれは断られていました。碓氷製糸はそのとき社員の募集をしていなかったので受け入れていただいてありがたかったです。この頃のエピソードはまだまだありますが、現場が外部の人からどう見えていたかという話もひとつ。座繰り部門が立ち上がり、繰糸場の片隅で仕事をしていると工場見学にいらした女性がわたしに近づき「女工哀史みたいなことにはなってない?大丈夫?」とこっそりと声掛けいただいたことがありました。当の本人は座繰りができるようになって技術の向上に燃えていましたから、女工哀史っていつの時代!?どういうこと?とびっくりしましたが「大丈夫です」と笑顔で返答した記憶があります。
従業員のなかには、ブラジルの製糸工場に務めていた方や海外へ指導に行っていた話もありました。
ブラジルといえば以前知人から、かつて安中市にあった群馬県立蚕糸高校の学校新聞を同窓生がまとめた冊子をいただきました。この高校について卒業生という方の話では、農家の長男はみな入学して養蚕や製糸について学び、卒業後は家業を継いだり蚕糸関連の会社に就職したそうです。冊子の昭和40年代(1965〜)を見ると「移住クラブ」という部活があり驚きました。この部活は卒業後に海外移住を考える生徒が所属し、海外移住の心得や手続き、移住している先輩たちとの情報交換などを行っていたようです。いまなら留学や遊学でしょうが、高校を卒業してまもなく雇用移住や開拓自営移住として海外で働きたいというのですから何てたくましいのでしょう。世代としては集団就職の若者とも重なります。昭和42年にはブラジル・サンパウロにあるブラタク製糸から高校に求人があり、実際に何人もブラジルへ渡っています。ブラタクとはブラジル拓殖組合といい、日本からの移民が養蚕や製糸を伝えたのが始まりだそうです。現在でもこの会社は存続して世界中のハイブランドへ高品質な生糸を輸出しています。当時の社長は日本人で、現地の養蚕家への技術指導や蚕種製造、自動繰糸機の保全修理、各種トラクターや自動車の操縦修理など技術要員を求めていました。移住した卒業生の投稿文のなかには、ブラジルで養蚕が盛んになってきたため、現地の高校で日本の養蚕を教えることになったから、母校の授業を参考にしたいというものもありました。碓氷製糸の従業員のなかにも蚕糸高校の卒業生で若かりし頃にブラジルに移住していた人があったかもしれません。