大河ドラマ『青天を衝け』と官営富岡製糸場 そして 繰糸機について
2021-10-17
🔼 掲載画像はクリックすると拡大します。
NHK大河ドラマ『青天を衝け』は、今夜の第31回(17日放送)に官営富岡製糸場が登場します!!
数回前にフランス人技師ポール・ブリュナと尾高惇忠の握手や成長した尾高勇の登場で、今か今かと待ち望んでいました。今回では、長野県の岡谷蚕糸博物館が復元所蔵しているフランス式繰糸機を使って撮影が行われ、尾高勇が座繰りをするシーン、それから富岡製糸場の繰糸指導を同館学芸員の林久美子さんが担当されています。
私は岡谷蚕糸博物館の髙林千幸館長や林さんファンなので、予告動画を見てから今週は脳内がお祭りモードでした。このお祭り脳内で、放送日までに因んだ話を2点くらいは書きたいと思ったのですが。もう今日が放送日なので、上州座繰器やフランス式繰糸機の見どころなどを短く紹介したいと思います。
● 洋式製糸技術導入前の日本の糸作り
日本の「繭から長繊維の糸をつくる技術」は、長らく手作業でした。繭を茹で糸口を取り出し、簡易な道具にその生糸を巻き取るようになると、より効率を上げかつ良質な生糸を得られるよう手動道具の改良は進みます。その最高峰は左手ハンドルで歯車機構の上州座繰器でしょう。この図は1872年(明治5)、富岡製糸場が操業した年に愛知県が発刊した『養蚕仕法説論録 全』です。明治初期にはヨーロッパから製糸技術が日本に入ってきましたが、実際にはまだまだ上州座繰りが勧められていたことが伺える資料です。
● 明治5年に官営模範製糸工場が上州富岡で操業開始
生糸が重要な輸出品になると、品質向上と増産が求められ、それには外国の最新技術と機械の導入が急務でした。渋沢栄一は1870年(明治3)に官営模範製糸工場の設置主任になり、1872年(明治5)に官営模範工場の富岡製糸場が創業するに至ります。この2年間でフランスから機械部品を調達し、巨大な工場を建設したことに仰天します。現在の群馬県富岡市が建設地として選ばれた理由は、原料繭の調達、広大な土地の確保、製糸用水の設置環境、蒸気機関の燃料となる石炭の確保ができ、外国人指導の工場建設に地元の同意が得られたからとのことです。
● 官営模範製糸工場の繰糸機を保存研究する岡谷蚕糸博物館
富岡市に官営創設当時の建物が現存することは驚きですが、当時稼働していたフランス式繰糸機も一部が現存することをご存知でしょうか。
富岡製糸場は官営から民間に払い下げられ、最後は片倉製絲紡績會社(のちの片倉工業株式会社。以下、片倉)が所有していました。片倉は、1942年(昭和17)にフランス式繰糸機を当時最新の繰糸機に入れ替えるため撤去し、その際に2釜を保存しました。
片倉は、フランス式繰糸機を含む、それまで収拾した美術品や蚕具・製糸機械等資料を保存、展示する美術館を所有していましたが、昭和33年にその総てを片倉発祥地である岡谷市へ寄贈、寄託しました。岡谷市はこれを元に、地元の製糸業者や全国の蚕糸業関係者の協力を得て、蚕糸の歴史を末永く後世に伝えるため、昭和39年に「岡谷蚕糸博物館」を建設、平成26年には農業生物資源研究所があった地に移転、館内に宮坂製糸所を併設したシルク博物館にリニューアルしています。
岡谷蚕糸博物館シルクファクトおかや
● フランス式繰糸機と復元機
この画像が前述のフランス式繰糸機です。館内ミュージアムエリアに常設されています。
フランス式繰糸機は、当時 300釜が輸入されました。釜の数え方は、繰糸鍋1つを1釜と数えればよいです。保管品は、そのうちの座席番号 151号機と 152号機です。繰糸機は 25釜を1セットとして区切られ、300釜なので総計 12セットでした。画像手前の釜が 151号機の一番端っこで 175号機までのセットを 152号機と 153号機の間で切断されたと推測されています。
ところで、官営富岡製糸場の繰糸技術を勉強している方はお気づきになるでしょうが、この繰糸機は創業時そのままの状態ではありません。実は創業当時の繰糸機と保管されている繰糸機では、生糸の抱合方法が違うのです。
生糸を作るとき、繭を茹で糸口を出し、その繭糸を数本束ね、抱合を良くするために「撚り掛け」という仕掛けを施します。この図は、当時ヨーロッパから日本に入ってきた2種類の撚り掛け方法を紹介しています。Aはフランス式の「共(とも)撚り」、Bはイタリー式の「ケンネル撚り」といわれます。日本では撚り掛けの導入経路がそれぞれの国からだったので、このように区別認知されてきましたが、1896年(明治29)の書籍には、どちらもよく調べるとイタリーのピエモンテあたりが発祥だろうと記され、その後の研究でも国名で明確に区別はできないとされています。
官営富岡製糸場ではフランス人技師がA図のように2緒繰りの共撚り掛けを伝えました。保管されているフランス式繰糸機は、後に改造され最後は現品の通り4緒のケンネル撚り掛けになっています。
改造された理由は、AよりBの撚り掛け方法が簡単だったからでしょう。ここでは詳しく語りませんが、AとBのどちらが上質な生糸を得られるかといえばAなのですが、AはBに比べて秀逸な繰糸技術が求められたので、生産ロスが多かったであろうと想像できます。このため、段々とBのケンネル撚りが主流となりました。現在の製糸で見かけるのはケンネルのみです。
この画像は、復元されたフランス式繰糸機です。ミュージアムエリア常設展示室から宮坂製糸所へのエントランスに展示されています。この復元機は、保存されたフランス式繰糸機や錦絵などを元に同博物館が復元しました。というのもフランス式繰糸機の図面は見つかっていないからです。この繰糸機に関しては、同博物館の紀要に研究内容が多く発表されているので、ご興味ありましたらぜひ手に取ってくださいね。
他、余談ですが、フランス式繰糸機の共撚りの図では赤字マークの絡交鉤を見かけますが、復元機では少しデザインが異なる鉤が使われていました。このことを高林館長さんと林さんに以前質問しています。それによると、これは「スルメ」といいます。輸入当時の繰糸構造は、繭から繰り取られる生糸が鍋から糸枠に巻かれるまでの道のりにおいて、摩擦がとても大きかったそうです。林さんは実際に試して、糸切れがすごいのだとおっしゃっていました。そのため、共撚りから糸枠へ巻き取られるまでの構造はその都度改良されていったのだそうです。ですから「スルメ」が実際に使われた期間は短かった、復元機を稼働させる際に不便だったということでしょう。少ない資料を頼りに繰糸機の図面を引き、実際にその機構に触れながらナゾを紐解いて行く作業はとてもエキサイティングです。伺っているこちらまで熱を帯びてくるお話でした。参考資料:同館紀要第5号