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秋蚕と尾高惇忠

2021-08-23

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 当館では 9月になると晩秋蚕の飼育が始まります。
ちょうど大河ドラマ「青天を衝け」が放送されていますし、秋蚕と尾高惇忠のエピソードがありますのでご紹介します。

皆さんは、養蚕が行われる時期をご存知でしょうか。現在は人工飼料を用いることで蚕は1年中育てることが可能となりましたが、製糸用に繭を出荷する農家にとって人工飼料はコスト高なこともあり、桑葉が収穫できる期間での飼育が主流です。


当館の飼育風景

 関東では、おおよそ 5月初旬の春蚕(はるご)から始まり、夏蚕(なつご)、初秋蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん)、晩々秋蚕(ばんばんしゅうさん)、珍しいところでは 10月に初冬蚕(しょとうさん)の年に 5 〜 6 回の飼育が可能です。


『養蚕秘録』より

 ですが、元来日本の在来蚕品種の飼育は、春蚕と夏蚕の2回です。これは、日本種が1年に一世代の「一化性系統」と二世代を繰り返す「二化性系統」だからです。
1802年(享和2)養蚕秘録には、春蚕と夏蚕が飼育されたことが書き残されています。これは二化性系統の蚕で、添付画の説明文には

「片夏といふ白き春蚕あり三十日余にして繭作る・・・十日余にして蛾生す是夏蚕の親なり此まゆにて蛾を出し夏蚕の種を取り 又夏蚕にて種を出せは明年の春片蚕 といふ 白春蚕の種出る」とあります。

つまり、春の蚕蛾から夏蚕の蚕種(蚕の卵)が取れ、それが翌年の春の " 片夏(かたなつ) " という白い蚕の蚕種になるという話です。


 このことが大きく影響した有名な建物があります。

それは 1872年(明治5)に操業した官営富岡製糸場(以下、富岡製糸場)です。先述の通り、繭は春と夏に収穫されますが、当時の夏繭は良好ではなく主に紬の材料になったとも聞きますから、製糸原料の大半は春繭だったかもしれません。工場を1年間操業するために、年に 1、2 度しか入手できない繭を大量に買い付け、保管する必要がありました。


撮影:2011年秋

このため、富岡製糸場には大規模な繭の貯蔵庫が2棟建設されました。正門から入り真正面に建つ東置繭所とその奥の西置繭所です。置繭所の大きさは、全長100m以上の2階建てです。建物の東西には室内の通風を良くするために、窓がたくさん設けられています。入庫の乾燥繭が保管中に湿気等で品質不良にならないよう防ぐためでした。


肖像:尾高惇忠

 さて、初代場長だった尾高惇忠は富岡製糸場の建設時から、蚕期回数を増やせないかと考えていたようです。尾高について記した『藍香翁』には、春や夏の飼育で 一度収穫を終えた畑の桑が、秋季に再び緑に茂るさまを見て、飼育すべき蚕が無いためにその葉が虚しく枯れ落ちることを嘆いたこと、当時の蚕書を調べるも成果がなかったことが記されています。


明治40年代の蚕種風穴内部と貯蔵箱、長野県

この問題を解決したのは風穴の利用でした。信州安曇郡稲核では文久年間に風穴で蚕種を保管し、通常の時期よりもふ化を遅らせる技術が開発されていたのです。

尾高がこの技術を知ったのは、或る人物が冬のうちに信州の風穴に蚕種を保管し、翌年の 1872年(明治5) 6月に武州へ持ち帰ったことでした。尾高は養蚕家らと共に風穴保管の蚕種から試験飼育を重ね、飼育が上手く行ったため、1875年(明治8)8月に「秋蚕説」を著します。このときに「秋蚕」の名称が生まれたようです。尾高は、秋蚕の推進に身命を掛けてゆきますが、当時の政府はこれを認めませんでした。


蚕種原紙見本、明治8『蚕種製造組合条例』より

尾高のエピソードを進める前に、当時の養蚕に関する法令等を少しご紹介します。
慶応の幕府に続き、明治政府も生糸・蚕種の粗製乱造防止と供給や価格安定のために取締りを行いました。1870年(明治3)に蚕種製造規則を制定、鑑札を交付し蚕種の捏造と不正販売の取締りを始めます。その後も蚕種原紙規則の制定や蚕種取締規則の実施、1874年(明治7)には蚕種原紙規則を蚕種原紙売捌規則へ改定しました。この頃の蚕種製造は、蚕種を産み付ける台紙の蚕種原紙(以下原紙)を専門業者が定められた規格に漉き、大蔵省が管理しました。原紙は大蔵省租税寮の他、武州深谷・信州上田・岩代福島の 3ヶ所に売捌所を設け、各養蚕地方から選出させた大総代(上州だと田島武平ら)が最寄りの売捌所へ出向き、免許鑑札と印紙を交付されるものだったようです。この先から農家までの流通が今回は調べられませんでしたが、大総代から蚕種製造業者へ渡った原紙に蚕種を産卵させ養蚕家へと売られたのだと思います。


尾高のエピソードに戻ります。『 夏秋蚕飼育法(明治42)』によると、明治 7年ころと思われますが、富岡製糸場場長の尾高は秋蚕を熱心に奨励し、この蚕種の製造に着手、配布しました。先述からの通り、この秋蚕種は政府に奨励されておらず、専用の原紙は存在しませんから、代わりに春蚕種専用の原紙に産み付け、風穴貯蔵したのです。この春蚕種原紙は、別書には「古」とありましたから使い古しの原紙を再利用したのではないかとも考えられます。いずれにしろ、これは規則違反のため事件に発展しました。


撮影:2017年 11月

尾高以外に製造に関係した蚕種製造家も罪を受け、大審院に上告することになりますが、この裁判は翌年の明治 8年に蚕糸業に関する規則法令が全廃となったため、取り消し無罪が申し渡されました。尾高は明治 9年に場長の職を辞しています。  

 この一連のことが刻まれた石碑『 秋蚕(しゅうさん)の碑 』が 埼玉県児玉郡美里町木部466 にあります。詳細な説明板があるので必読です。こちらによると尾高が富岡製糸場を辞職した理由が2つありました。明治 9年は日本の繭が大豊作で、西洋の不作情報を得た尾高が国内の繭を安価で大量に買い付け、値上がりを待つことで大きな利益を上げました。これにより富岡製糸場はそれまでの赤字を解消したのですが、この尾高の手腕を政府は模範工場の取るべき事業ではないと咎めました。その上、秋蚕への反対の意図を示され辞職に至ったようです。その後、尾高は第一国立銀行盛岡支店の支配人となりました。 


『養蚕新論』より

 秋蚕については、法令全廃後に飼育が可能となりますが、春蚕と違い歴史が浅いですから飼育研究が乏しく、豊作にはなかなか至らなかったようです。研究が進まない時分は、養蚕家から「秋蚕と粥の当たりしことなし」や味噌汁と並べて「当たらない」と軽蔑されたようです。技術が進むと、8月に飼育する秋蚕が著しく普及しますが、大正時代中期に一代交雑種に変化すると、秋蚕は 7月から飼育する初秋蚕と 9月の晩秋蚕の2回に分かれ、全国に定着、拡大して行きます。

それにしても、国益を思えば秋蚕の奨励は明治政府こそ取り組んでも良さそうなものと感じますが、尾高惇忠や民間の蚕種製造家、養蚕家らの情熱と行動力に心打たれます。当時は大きな事件だったのではと思いますが、その後の夏秋蚕に関する教書をいくつか確認しましたが、その沿革が記された書で、尾高らの事件に触れるものは少なく、飼育技術の沿革に主軸を置いたものが大半でした。私自身も 2017年に偶然「秋蚕の碑」の看板を見つけるまでは知りませんでした。