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裃雛と山繭縮緬  〜 これまでの総ざらえ 〜

2024-03-07

先日、わたしが住む群馬県安中市にある茶屋本陣に行きました。ここでは毎年「ひな人形展」を開催していて市民から寄贈された雛人形がたくさん飾られます。

 

『 いにしえの雅な おひなさま 』

会期:3月10日㈰ まで(9:00 〜 最終入館16:30)
会場:五料の茶屋本陣 お西・お東

駐車場:あり

https://www.city.annaka.lg.jp/page/12184.html


 江戸時代の享保雛から御殿雛、坐雛、浮世人形、吊るし雛、掛け軸など約1,000点がお西、お東の2棟の建物にたくさん飾られています。


奥にあるお東の建物には、愛媛県の真穴の座敷雛のようなしつらえもありました。お人形たちの園遊会はとても楽しそう。桜の近くには花咲かじいさんがいましたよ。
手前の椿の花は布でできていて、こちらも素敵でした。

 


約300体の裃雛を展示 関東一のコレクション数かもしれない
約300体の裃雛を展示 関東一のコレクション数かもしれない

さて、私のお目当てはこの裃雛(かみしもびな)です。

「裃雛は、節句人形の産地、埼玉県岩槻の久保宿に居住していた橋本重兵衛(文化・文政)が考案したとされ、この雛の原形は室町雛で、一般の雛のように一対だったのが、やがて裃姿の一人の人形になり広く関東地方に普及した。蚕やお米がたくさん取れるよう作神様として飾ったり、子どもの誕生祝いにも使用され、毎年買い替えるのが習わしだったのでよく売れたという。近郷近在は勿論のこと、水戸や上州・東北にも出荷されている。

( ” 百年誌岩槻の人形 ” より)」


私がこの裃雛に関心を持ったのは、2013年にこの人形展を観てからのこと。当時はアメーバブログに日記を書いていて、いまでも文章を読み返すことができます。

 

理由は、この裃雛の着物に山繭(やままゆ)の糸が織り込まれた縮緬(ちりめん)が使われている人形が幾体もあることに気づいたからです。画像中央の雛の袖に使われている緋色に格子柄の縮緬がそうです。左斜め後ろの雛の袖にも。


では、この山繭が織り込まれた縮緬はどのような布なのか少しご紹介します。

まず縮緬は、絹織物の一種です。現在では化繊もたくさんありますが、縮緬といえば絹なのです。布の表面には細かな凹凸・シボがあります。製造工程は、タテ糸には撚りのない生糸、ヨコ糸には強い撚りをかけた生糸を使い平織りしたのち、アルカリを溶かした湯で布を煮沸して縮ませることで独特の布に仕上げます。丹後縮緬や浜縮緬などが有名です。


この縮緬に山繭(天蚕)糸を使ったものがあります。

 

山繭というのは、ヤママユガ科の大形の蛾です。
この蛾の幼虫はクヌギやナラなどの葉を食べて淡黄緑色の繭をつくります。


ヤママユガの繭から羽化したオスとメスの蛾です。ヤママユガは野生の蚕で、日本各地や朝鮮半島、台湾などに分布しています。稀に外出先で蛾を見かけることがありますし、林を歩くと羽化したあとの出殻繭を見つけることもあります。

 

昔から人々は、この繭を拾い集めて糸にし布を織りました。

 


それから、江戸時代の文政にはヤママユガの飼育法を書いた『山繭養蚕秘博抄(やままゆかいようひでんしょう)』が刊行されています。左の図は、ヨシズで四すみと天井を囲った場所にエサとする枝葉を用意し、飼育するものです。

 これにより繭の収穫が楽になります。特に飼育以前は山を歩いて出殻繭を拾い集め紡ぎ糸としていたのが、生繭が手に入りやすくなったことで長繊維の生糸をつくることも容易になったと思われます。


山繭養蚕秘博抄には、左図のように山繭を茹でて長繊維を引き出して生糸を取る法と紡ぎ法、織りについても記述があります。

 


ヤママユガの繭とその生糸です。
これは、私が過去にヤママユガを育て、その繭を上州座繰器で生糸にしたものです。

では山繭の糸を用いた縮緬がつくられたのは、いつごろからなのでしょうか。

 


「文化遺産オンライン」より
「文化遺産オンライン」より

詳しくはわかりませんが、江戸中期には山繭縮緬地の友禅小袖があります。左は後期とされる武家女性の小袖で、山繭縮緬地に源氏物語をモチーフにした豪華な刺繍が施されています。

この山繭縮緬とは、一般的には家蚕糸と山繭糸を交織した縮緬をいいます。白生地で仕上げた後、布染します。山繭糸は、家蚕糸に比べて染料の染め付けが悪いためにその特長を活かして濃淡のある縞模様をつくるのです。


「岩槻人形博物館コレクション名品選」より 年代:江戸〜明治
「岩槻人形博物館コレクション名品選」より 年代:江戸〜明治

この市松人形にも山繭縮緬が使われています。緋色に淡い変わりタテ縞の縮緬です。濃く染まった緋色部分は家蚕糸で、淡く銀糸のように光っている糸が山繭です。

文化遺産オンラインには、京都国立博物館収蔵の「御所人形被布立姿」があり、これも山繭縮緬で藍色の変わりタテ縞を着ています。愛らしいのでご興味ありましたら検索してみてください。


さいたま市岩槻人形博物館の前
さいたま市岩槻人形博物館の前

話を裃雛に戻して、私の関心事はこの裃雛に使われている山繭縮緬の布の産地はどこなのかです。

このことが気になりながら動かず。腰を上げたのは昨年のことで、のんびりしていたら10年が経っていました。

 

昨年の2月、3月に岩槻、鴻巣など埼玉県の節句人形の地をまわり、裃雛と山繭縮緬について聞き込みをしました。しかし、この人形の着物地に山繭縮緬が使われていることに誰も関心がなかった(初耳だった)のです。


岩槻・人形の東玉・人形博物館
岩槻・人形の東玉・人形博物館

岩槻でじっくり話をお伺いできたのは人形の東玉さん。夫の友人のつてで紹介いただき、ご親切に対応いただきました。

雛人形の生地の多くは京都西陣から仕入れていたと伺いました。しかし、山繭縮緬についてはまったく手がかりがありません。

東玉さんの総本店ビル4Fには自前の人形博物館があり拝観できました。こちらには数体の裃雛がありました。その中で一番小さな子はお着物全体が山繭縮緬の珍しい坐り雛でした。


岩槻・老舗料亭 ほてい家 2023年3月撮影
岩槻・老舗料亭 ほてい家 2023年3月撮影

 惜しまれるのは、岩槻には人形歴史館東久という裃雛の最大のコレクション(1,000体)を持つ人形店があったのですが閉店していたことです。コレクターの社長さんが数年前に逝去されたからです。この方が地元では裃雛について一番知識をお持ちだったと聞きました。

コレクションの多くは人手に渡ったようですが、裃雛の一部は老舗料亭ほてい家さんで大切にされていました。 


鴻巣・鴻巣市産業観光館ひなの里
鴻巣・鴻巣市産業観光館ひなの里

岩槻では、先述の ” 百年誌岩槻の人形 ” に掲載されているような情報以外はでてきませんでした。

 

それが少し進展したのは、鴻巣市産業観光館ひなの里の職員さんの話でした。この方は60代以上の職人さんで、雛人形を作る家の6代目だそうです。
「自分が幼少の時には、裃雛は作神様や茶坊主などと言ってありとあらゆる売り方をしていた人形。いろんな市で安く売っていた。」


「裃雛は、雛人形を作る練習台だった。顔は五人囃子、五人囃子には決まった口があり、失敗などして半端になった五人囃子人形やお殿様が使われた。体は襟を巻く練習、袖口には針金が入っていて三人官女座像の腕のひし形の曲げ方の練習。」

これまで話を伺ったのは販売店などだったので、職人視点の事情は目から鱗でした。この話を聞いた後に裃雛を見ると頷ける内容で、精製されていない練習雛だからこそ、裃雛に関しては資料が乏しいということなのかもしれません。


 雛の布については「着物は木綿。絹を着たお内裏さまは明治の始めに一部あるのみで西陣の布を使った。裃雛の胴体部分の生地は練習用にどこかから安い木綿布を大量に仕入れたのだろう。他、裾は雛人形のためではなく、何かの半端裂で十分作れた。布は京都だが、関東なら桐生からも入った。」とのことでした。

 

いまだ、裃雛の山繭縮緬については明確な資料には辿りつけていません。


当館の山繭縮緬の資料
当館の山繭縮緬の資料

 私見ですが、明治も20年代に入ると山繭縮緬の用途はカジュアルになり、明治40年には大流行しています。

流行の装いは、商家の婦人は一切模様のない山繭縮緬の小袖、略服では縞の山繭入縮緬とあります。

ちょうど明治35年の大日本蚕糸会報には、柞蚕糸も山繭縮緬の原料で家蚕の生糸と交織し真紅に染めた縞とあります。明治20年代には柞蚕糸が清国から輸入され、その速力は年々増している、その生糸価格は国産の半額。

柞蚕は清国が本場で、その糸は器械や足踏繰糸機でケンネルを施した20〜25デニールとのことです。


当館の山繭縮緬の資料
当館の山繭縮緬の資料

 山繭は、家蚕に比べて幼虫の飼育も製糸もずっと生産効率が悪いので、できあがる反物はどうしても高価になります。それが流行してたくさん出回った時代があるということが私はどうしても腑に落ちなかったのですが、そこに清国の柞蚕糸が使われていたというのなら納得です。

輸入糸を使うことで山繭縮緬がリーズナブルとなり、装いを楽しむ人が増えて反物が量産され、大量に出た端切れが裃雛に用いられた可能性はあるでしょう。


料亭ほてい家で拝見した山繭縮緬の裃雛は明治34年
料亭ほてい家で拝見した山繭縮緬の裃雛は明治34年

 裃雛の中には人形が贈られた年などを書き記したものがあります。実際に拝見したり公開されている資料から山繭縮緬の布をまとった裃雛の年代を見てみると、明治34年、35年、43年、大正3年というのがありました。くしくも山繭縮緬の流行と合っています。
この辺でとりあえず由とするかな。あとは製織も清国製があるのか。国内ならどこで織られていたのか明らかにできたら良いですね。この時代、山繭縮緬の産地といわれるところは幾つかあるのです。いまでも資料が残っていたらうれしいな。次の愉しみです。